中村史子、"ざんぐりとしてぬうぼう ―風狂の詩学― "
ざんぐりとしてぬうぼう ―風狂の詩学―
中村史子(愛知県美術館 学芸員)
風狂の奇僧、西行が人造人間の制作を試みた逸話が『撰集抄』の中にある。深山に住む西行は人恋しさにかられ、骨を繋ぎ合わせて秘術を行い人造人間を作りあげた。しかし出来上がったのは、姿形は人に似ているものの話相手にははなはだ不十分な生き物。処分に困った西行はその人造人間を人目につかない山奥へと捨て放ったと言う。あっけらかんとしつつも、どこか底恐ろしい後味の残る話である。
木村充伯は主に、油絵具の彫刻、生の樟を素材とした木彫作品、ドローイングを制作する若手の造形作家である。最近では油絵具で描いたイメージをティッシュに写し取った一種の版画作品にも挑戦している。
油絵具彫刻を理知的に分析、解釈することは可能である。例えば、絵具それ自体で立体を形作っているという側面に注目し平面と立体の境界を批評的に問う、というように。
しかし、それは作品の魅力を随分やせ細らせてしまうだろう。むしろ、油絵具のぬらぬらとした生々しさ、危うさにこそ、作品の独自性はあるのではないか。例えば、木村は固まりきっていない油絵具に外部から力を加えて人の顔などを形作るが、その子どもじみた素朴な行為は不意に錬金術にも似た怪しさを放つ。肌色の絵の具にちょんちょんとラフにつけられた目と口。彼らはあたかも生まれたばかりの子どものようにぬらめきながら私たちを見つめ返す。ぬうぼうと揺れながら存在する彼らは、生成過程特有の生温かさを確かに感じさせる。
枝の先に直接彫られた人の顔や猫も同様である。枝の先ににょきにょきと生えている顔は非常にユーモラスではあるが、意思を持った生首のように見え不気味でもある。油絵具彫刻と同じく、何か完全態にいたる手前のエネルギーがうごめいているかのようだ。また、生木の手触りや鑿の跡をそのまま残した造形は、トーテムポールや祖霊像などを彷彿させるかもしれない。ざんぐりとした生木の触感が、円空仏のように親密さと畏怖の念を同時に起こさせる。
つまり、木村が身の回りの事物―猫、人の顔、鳥、アーモンドフィッシュ、キャットフードなど―をモチーフとした小品を多く作っているという理由で、木村を見慣れた日常の美を再発見する作家のように扱うのははなはだ不適切だ。むしろ、都会から離れた山村のアトリエでたんたんと木を彫り油絵具をつつく彼の態度は、静かな狂気を予感させる。風雅、風流ではなく風狂。風狂の人は現在もなおゴーレムを作り続ける。
もっとも、木村は厭世的なアイロニーは持ち合わせていない。普段何をしているのか、という私の質問に彼は「自分の家をつくっています」と答えた。その表情は明るい。その木村の顔自体も鏡を通してすでに外部へと写し取られ、彼を取りまく全てのものと共に分裂、溶解しつつあるのだが・・・。